文:野口啓吉『浅草「安来節」大和家八千代伝』東京都立白鴎高等学校研究紀要第21・22・23・25・26号より 編集 ダーク広和
大和家八千代 (本名:来間おめの)
明治35年12月10日島根県出雲市村玉津に父竹蔵、母おきさ、五人兄弟の二女として生まれる。
母おきぬは信心深く今市町に三ヶ所ある寺の説教を聞きに子供達をよく連れて行った。八千代は本町と中町の境にある妙見寺が好きだった。それは寺に着くとそこを抜け出して近所にある置屋の芸者衆が稽古する三味線や出雲節を聞くためだ。三味線弾きは遊び人と思われる時代であったが、三味線が好きだった。良いに付け悪いに付け、耳にたこができるほど出雲節を聞いていたので、素養は自然に身についた。
明治43年10月、稲が黄金のを敷いたように輝く出雲平野の真ん中を山陰本線が延びできた。今市町と塩冶村の境に出雲今市駅(現西出雲市駅)が来間家から200mの距離にでき、市や祭の立った広場には南座という劇場が建った。八千代が12才の時「お糸一行 安来節 南座にて」のポスターが掲示され、南座には赤、青、緑、黄色で染め抜いた「贈渡辺お糸」ののぼりが風になびいていた。心が浮き浮きして押さえることができなかった。今から思えば、その公演は出雲にあるべき民謡だけを歌っていたのだが、それを食い入るように見つめた。
14才になると安静楼という料亭の仲居として働きに出た。偶然その町に南座で観たお糸一行がやってきた。もう一つの偶然、一行の歌い手おしなの宿が安静楼だった。
おしなの歌はその実、看板お糸よりも上手かった。高い声で気持ちがうっとりと引きずられるようになる。八千代は舞台で洗練された安来節をおしなから習った。お糸節を間接的におしなから伝授されことになる。
その後、出雲大社の大通りに二軒あった置屋の大和家に入る。芸者修行では毎日仕事の合間を縫って大社にお参りした。その強大な建物は神への恐れと同時に自分の根源に眠っているものを想起させる。八千代は「一座を作れ」と天の声を聞いた。16才の時だった。姉春子19才、妹清子12才、置屋の屋号を取り大和家三姉妹一座を設立した。
父竹蔵は10~13才の小娘を7・8人スカウトしてきた。八千代は役者中村千賀次夫婦を一座に引き入れた。千賀次は百姓が食用にするドジョウを取る仕草を安来節の三味線に合わせて踊った。
女踊りは短い絣の着物に赤い腰巻き、たすきを掛けた前掛け姿の娘が男踊りと同じテンポで踊る、すると娘達の着物の裾が開いて白いももが見え色っぽさが売り物となった。