ダーク大和物語

  • 2009.06.21 Sunday
  • 23:51
手品師、司会者、役者、安来節の踊り手

ダーク大和物語

 昭和元年十一月一日の一並び、島根県は岩国から石州津和野に向かった山ん中、六日市生まれだよ。広島に移って鍛冶屋の長男、作業場は音が周囲に響かないように大きな穴の中にある。そこで父の仕事を手伝っていたら広島のピカドン! 作業穴の上に建物がつぶれて、簡易核シェルターのできあがり。それで助かった。ちなみに爆心地から五十キロ以内、原爆手帳見せてやろうか? こいつがあると医者代はほとんどかからないけど、病院に行くのはにがてだなぁ。家は芸能好きで父に勧められて芸人になったんだ珍しいだろう。





戦前は楽団員、戦後は大衆演劇の役者さ、戦後は辛かったね。下っ端に布団なんか無いから! 衣装とか入れるコオリをかぶって寝るんだけど、これが寒いのなんの、朝起きるとコオリの上がうっすらと白くなってるんだよ、隙間から吹き込んだ雪が積もってるのさ、びっくりだね。凍死しては困るから芸を磨いたよ、芝居、漫才や手品はもちろんサーカスもやったね。昔から身が軽いから椅子を積んでその上で逆立ちするやつ、あれやってたら一番上で椅子が壊れて三間ぐらい(五・五メートル)のとこから落ちて心臓痛めてやめた。そんとき最初のカミさんと知り合って、漫才やろうってことになった。漫才なら大阪だよやっぱり、すぐに大阪に出たね。漫才は二人だし食うぐらい何とかなると思っていたら、これが食えないのなんの、仕方ないからクリーニング屋の営業やったりニコヨンして食いつないでたんだけど、ある時朝起きたらカミさんいないの、どっかいちゃった。

漫才の師匠と仰いでた人が東京で活躍していたから昭和二十四年東京に出ることにしたんだ。お前さんは知らないだろうけど大和屋三姉妹と言ったらものすごく売れてる師匠だったんだ。師匠、大和屋八千代、酒井儀二郎を頼って一人で東京に来たものの、漫才の相棒はいないし一人でできるのは手品しかなかったね。でもラッキーだったよ、ちょうどお祭りシーズンで芸人がいくらでも欲しいわけ、着いたその日から仕事ができた。昔の芸名は長谷川とんぷく、師匠に田舎臭い名前だから変えろと言われて大和屋の大和をもらって、本名がたくぞうだからタク・タクって呼ばれてたんだが、終戦だから世の中暗いしタクをもじってダークでいいか、顔の色も黒かったけどね。簡単にダーク大和のできあがりだ。





仕事はあるもののネタがない、勉強したね。休みは二百円持って新橋ベーカリーって喫茶店に行って、そこじゃアマチュアマジシャンがたむろして手品見せっこしてるの、それをさりげなく血眼で見てた。戦後はなんにも無かったからもちろん手品の道具もない、舞台の横にたまたまあった防火バケツとばら銭、客席から子供を舞台に上げて空中をつかむとお金が出てくるマジック、意味はわからないがマイザースドリームってやつを。驚く子供を見て客は大受け、この手品は戦前からあったけど、元々ブリキのバケツじゃなくシルクハットだったんだ。こいつは手品じゃない、呼吸だよ漫才の呼吸。相手の子供は毎回変わるから気を抜いちゃいけないよ。
祭りの仕事をきっかけに浅草の木馬館にでるようになったんだ。祭りのギャラは八百円だったね。浅草木馬亭じゃ故郷の安来やすき節をやってた。本場、島根出身、いまでも小学校の授業で安来節の時間があるくらいのとこさ、こいつを生かさない手は無い。わかると思うが、真ん中できまってるのがワシじゃ、生きたドジョウを出しながら踊る「安来節手品」の完成で将来こうなるわけだ。美貌が台無しだな。
ドジョウすくいの衣装に「淳」の字が見えると思うけど判淳三郎先生からいただいたハンテンなんだ、ぼろぼろになっても死ぬまでこれを来て踊るんだ。そうこうしているうちに島根の興行師の娘を嫁さんにもらうことになった。この二番目のカミさんから小遣い制になってね。旅に出る朝小遣いをくれるんだ。一日五百円、四日の旅なら二千円、これとは別に千五百円くれるんだな。何かって? 赤線代だよ。このかみさんは、今で言うなら敏腕マネージャーだね。

しゃべりが認められて判淳先生のいる事務所、芸映プロダクションに入ると歌謡ショーの司会をやることになった。井沢八郎さんや三波春夫さん、こまどり姉妹、藤圭子さんなどいろんな歌手の司会をやらせてもらったな。歌の司会だけじゃなくショーの中でお芝居やマジックもいろんなことをやった。楽団のころの経験が今になって役に立ったってわけさ。芸映プロダクションの躍進はすごかった。
西城秀樹さんは大スターになって、ちあきなおみさんがレコード大賞を取ったときも司会をしていたんだ。そのころふと手品師一本でやりたいと思った。司会の仕事をぱったり辞めてキャバレーやホテルで自分の看板でショーをやるようになったんだ。テレビのレギュラーも獲得さ。おかげで出雲の駅前に割烹旅館を建ててね。カミさんはそっちの経営、こっちは東京で稼いで別居生活の始まり。割烹旅館の借金も終わるころ、カミさんにそろそろ東京に出てこないかって誘ったら「途中でそっちに行ったら、借金が払えず夜逃げしたかと思われる」。恋いこがれってのは色気があるけど、こっちは来い来ないだ。さすが興行師の娘スパッと「じゃ別れましょう」てんで旅館もカミさんに全部あげて丸裸。六畳一間のアパート暮らし。


丸裸にはなれているが、病気には驚いた。いつものように寝酒をあおって、目が覚めた時はどうも寝てから五日ぐらい経ってたらしい。起きたら下半身がまったく動かず病院のベッドの上だった。その間どうなっていたかというと、異常に気づいた内弟子の広和が、夜中の十一時過ぎに横浜の知り合いの医者を電話で起こして横浜から東京千駄木まで車で片道一時間の往診を頼む、そんな無茶を快く受け入れてくれた恩人岡田先生は、俺の容体を見ると緊急事態を把握しすぐに自分の医院へ搬送、翌日医療機器の整った病院へ搬送、更に横浜市民病院へ緊急入院。ここで目が覚めたんだな。

それから八ヶ月の入院生活が待っていた。風邪のウィルスが脊髄に入ったとかで下半身麻痺、病院じゃ悔しくてテレビは見ていられなかった。特に演芸番組は…。車いすのネタを考えたりしてね。そしたらある時足がキュッと動いたんだ。それからが夢中でリハビリして、退院したときにゃ、安来節を踊ってやった。ちとふらついたが、あのハンテンを着て踊ってやった。ついでに三度目の新しい嫁さんももらった。それも金の草鞋わらじを履いて探さないと見つからないという、一つ年上の女房だよ。六十と六十一歳の新郎新婦入場で赤いちゃんちゃんこ着るか、本当に着たよ。おっと、最初の病気が治って甘い新婚生活から四年もたたない内にまた病気だわ。今回はガンだな、しか〜し、手術もうまくいった。俺もまだ六十四歳だし、もう一回出直してやる。
平成三年八月十日午後三時、六十四歳で癌から肺炎を併発し、奥さんが買い物に出た三十分の間に…。早すぎる死であった。亡くなってすぐに挿絵などで高名な今村恒美画伯からダーク観世音菩薩の色紙が届いた。

「手品やってて僕は本当に幸せだな」
 
コメント
詳しく知りたいです。
出版しましょう!!
  • 西尾
  • 2009/06/22 12:51 PM
本に出来るほどの文才ないです;;
筆圧は高いのだけどトホホ
  • ダーク広和
  • 2009/06/29 1:10 AM
ご無沙汰しております。
文章に引き込まれてしましました。

このシルクハットの演技の写真はアダチ龍光さんですか??
いつのお写真でしょうか?
返事がおそくなりまして、ごめんなさい。
シルクハットを持ったローアングルの写真は鈴本演芸場での高座(背景の杉戸から判断)アダチ龍光先生です。この写真は松旭斎天映先生からいただいた物ですが、残念なことに撮影の日付がございません。
  • ダーク広和
  • 2011/07/26 11:08 AM
 「ダーク大和」という、「・・けつかれ」てな、面白いマジックをやっていたマジシャンがいたはずなのに。。。検索しても出てきませんでした。やっとここで再会で来ました。
  • 小夏
  • 2011/11/01 1:24 PM
お忙しい中、かつまた生活の苦しい中
お探し頂きましてありがとうございます。
時間ができたらWikipediaに乗せます。
「弟子が書き込むまで、待っていて、けつかれ」
  • ダーク広和
  • 2011/11/01 2:57 PM
流石ですね…。酒井義二郎 大和家八千代は音源を残したのでしょうか?やはり気になります。ダーク大和師の最期の言葉が感動しました。ドキュメンタリー風に書いてみたいです。漫画でも良いかもしれません。安来節と奇術〜ダーク大和の一生〜みたいな感じに…。広和先生はやはり松旭斎天洋先生なんかにお会いしてますか?
  • 利根家源丸
  • 2011/11/11 10:38 PM
大和家八千代が90歳頃、自宅で録音した安来節の音源を保管しております。
  • ダーク広和
  • 2011/11/12 10:56 AM
天洋先生には個人病院で入院療養中に一度だけ師匠に連れてたていただき、『こいつもサムタイやるんですよ』と紹介していただいたのが嬉しく記憶に残っています。
  • ダーク広和
  • 2011/11/12 11:02 AM
そうですか。昔に広和先生のサムタイ拝見致しました。天洋師はもうお年でしたか?92歳は奇術界で長寿でしょう。八千代師の安来節ですか。聞いて見たいです。東京漫才変遷史みたいなのを作りたいです。
  • 利根家源丸
  • 2011/11/12 6:28 PM
偶然発見して読ませていただきました。
昔、子供の頃によくテレビでダーク大和師匠を拝見して、かなりファンでしたが、何故か周りの人は誰も知らない…。
近所の祭りで、客席から金魚を釣ったり、一般客相手にギロチンやったりしたのを鮮明に覚えてます。
子供番組に、マジックおじさんという役名で出ていましたね。懐かしい…
  • 通りすがり
  • 2011/12/10 9:31 PM
はい、日本テレビ系列の「なんじゃもんじゃどん」と言う番組でした。ロンパールームの後番組になります。
その後、西城秀樹さんの「モーニングサラダ」に編成されたように記憶しております。
  • ダーク広和
  • 2011/12/10 11:32 PM
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