ダーク大和の師匠大和家八千代と浅草安来節

  • 2010.07.02 Friday
  • 02:11
文:野口啓吉『浅草「安来節」大和家八千代伝』東京都立白鴎高等学校研究紀要第21・22・23・25・26号より 編集 ダーク広和

大和家八千代 (本名:来間おめの)
明治35年12月10日島根県出雲市村玉津に父竹蔵、母おきさ、五人兄弟の二女として生まれる。
母おきぬは信心深く今市町に三ヶ所ある寺の説教を聞きに子供達をよく連れて行った。八千代は本町と中町の境にある妙見寺が好きだった。それは寺に着くとそこを抜け出して近所にある置屋の芸者衆が稽古する三味線や出雲節を聞くためだ。三味線弾きは遊び人と思われる時代であったが、三味線が好きだった。良いに付け悪いに付け、耳にたこができるほど出雲節を聞いていたので、素養は自然に身についた。
明治43年10月、稲が黄金のを敷いたように輝く出雲平野の真ん中を山陰本線が延びできた。今市町と塩冶村の境に出雲今市駅(現西出雲市駅)が来間家から200mの距離にでき、市や祭の立った広場には南座という劇場が建った。八千代が12才の時「お糸一行 安来節 南座にて」のポスターが掲示され、南座には赤、青、緑、黄色で染め抜いた「贈渡辺お糸」ののぼりが風になびいていた。心が浮き浮きして押さえることができなかった。今から思えば、その公演は出雲にあるべき民謡だけを歌っていたのだが、それを食い入るように見つめた。
14才になると安静楼という料亭の仲居として働きに出た。偶然その町に南座で観たお糸一行がやってきた。もう一つの偶然、一行の歌い手おしなの宿が安静楼だった。
おしなの歌はその実、看板お糸よりも上手かった。高い声で気持ちがうっとりと引きずられるようになる。八千代は舞台で洗練された安来節をおしなから習った。お糸節を間接的におしなから伝授されことになる。
その後、出雲大社の大通りに二軒あった置屋の大和家に入る。芸者修行では毎日仕事の合間を縫って大社にお参りした。その強大な建物は神への恐れと同時に自分の根源に眠っているものを想起させる。八千代は「一座を作れ」と天の声を聞いた。16才の時だった。姉春子19才、妹清子12才、置屋の屋号を取り大和家三姉妹一座を設立した。
父竹蔵は10~13才の小娘を7・8人スカウトしてきた。八千代は役者中村千賀次夫婦を一座に引き入れた。千賀次は百姓が食用にするドジョウを取る仕草を安来節の三味線に合わせて踊った。
女踊りは短い絣の着物に赤い腰巻き、たすきを掛けた前掛け姿の娘が男踊りと同じテンポで踊る、すると娘達の着物の裾が開いて白いももが見え色っぽさが売り物となった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大正10年3月八千代は18才になっていた。どこで聞きつけてきたのか、神戸の御影座座長の弟、平池が八千代の家に出向いた。本格的に5日間の旗揚げ公演契約のためであった。
出雲地方から浪曲師、曲芸師、漫才師、手品師を集め座員38名は出雲今市駅から出発した。一座が御影座に着くと平池から送られた。
「贈 美声会一行」「贈 大和家八千代さん江」
などのが春風になびいていた。客はワーッときた。それを逃がさなかった。
この成功で気をよくした平池は九州巡業を計画した。
大和家八千代一座の巡業は太夫元(プロデューサー)平池、五厘屋(ツアーマネージャー、入場客一人につき五厘を得て地元の親分と話を付ける)大西、座長八千代で三位一体となって能力を発揮し、朝鮮、四国そして平池は女興行師吉本せいに「売」で八千代一座を一日いくらで値を付けさせて売り込んだ。
吉本せいは当時16軒の寄席を所有していた。一座は大阪という都会の空気を吸い、さらに垢抜けした芸を生み出していた。大阪巡業中8月に蝶印レコードで安来節を吹き込んだ。現在ならメジャーデビューと言うところだろう。この時、浅草常磐座の根岸吉之助から声が掛かった。
いよいよと言ってもとんとん拍子に東京進出、浅草六区は老若男女、家族連れで賑わっていた。劇場のほとんどがヨーロッパをまねて造られていたので異国の夢世界に入ったようだった。六区をくまなく歩いてみたが、安来節を公演している劇場は無かった。六区での安来節興行は根岸興行にとっても大きな賭であったに違いない。
根岸吉之助「蓋を開けた途端、どっと押しかけた客はもの凄く、たちまち満員札止めの盛況。入りきれない客は二回目、三回目の時まで待とうと数百人が劇場の前を二重三重に取り巻く状況だった。安来節は大成功のうちに大正10年8月17日~30日常磐座にかけられたが、民謡がかくまで大衆に迎え入れられるものかと驚きもし喜びもした。大和家三姉妹一座で座員30名を一日二百円で買ったものである」(大卒初任給50円)
都新聞には、「破天荒の大評判 美声会一行50名出演 人気沸騰」と21日付けである
八千代「背の大きくない頭のかわいらしい根岸から大変面倒を見てもらった。根岸のお声掛かりで当時常磐座に出演していた女優中村歌仙や帝劇あがりの萱野菊子にも可愛がられ、芸のアドバイスもしてもらえた。また六区の劇場に出入りしていたカニ屋(大道具・小道具を扱う者)の親分矢部栄吉とも知り合いになった。明治生まれの人々に大恩があります」

八千代はその後大正12年から昭和5年まで大森玉木と組んで浅草安来節全盛時代を築く。

大正12年9月1日午前11時55分、関東大震災は起きた。浅草公演の劇場もほとんどが焼失した。
行方不明3万4千人を含め10万人が亡くなった。劇場復興の様子を見ると9月9日には松竹の大谷社長、帝劇の山本専務、市村座の田村専務、常磐座の小泉丑治(根岸の父)の四氏会合で「劇場の恢復の決定文」を作り演劇の開演を急促するよう内相のを求めている。
この時八千代は群馬県沼田で公演中だった。巡業を打ち切り浅草公園へ帰るのをあきらめ七尾に行くことにした。列車には避難民が屋根の上まで乗っていた。二日間飲まず食わずの後七尾へ着き、玉木の劇場で楽屋を宿泊所に食いつないでいた。
大正13年、年が明けると全国に疎開していた安来節芸人が浅草に戻り仮造りの小屋で興行した。
八千代「どこからともなく人が浅草に集まってくるの、東京中の人が浅草によって来るの、安来節今から吹き上がっていくのと、のぼってくるというのと、お客さんの勢いが違う。震災後はすごかった」
まだ復興の進まない浅草公園に戻った八千代一座は座員36名の宿泊所にも困っていた。解決策として寄席回りを選ぶ。
八千代「寄席は50軒ほど有り、焼け残った所々で打ちました。寄席だから小さいと思うけど、そうでない。当時は交通機関も不便なので楽屋で泊まれるようになっていた。36人の座員、夫婦は小部屋、独身者や娘達は二つの大部屋にそれぞれ雑魚寝できた」
寄席回りとはいえ興行主玉木の収入は膨大なものであった。秋口には田原町に二階屋を一軒借り玉木と八千代は住んだ。震災で崩れた十二階劇場の後に造られた凌雲座で「大和家三姉妹 初代梅坊主一行」として公演する。こうした劇場への進出で玉木はさらに資産を増やしていった。
第1次世界大戦後恐慌や大震災により大正近代主義はかげりを見せていた。バラック建ての劇場でオペラも再演されたが、のんびりムードのオペラにはもう客は集まらなかった。そうした中、色気とウィット、スピード感のある歌舞、萬歳、曲芸など加味した安来節バラエティーショーに大衆の人気は集まっていた。
安来節が浅草六区に花開いた大正から昭和にかけての興行師は「大正6年本格的な劇場を建て、本格的な演劇の選別を付けた根岸興行部の根岸吉之助、小泉丑治の両氏とこの人達を応援した吉原の鉄砲喜久氏と花屋敷の大滝氏、石川県の大森玉木氏、六区の大道具をほとんど一手に引き受けていたかにやの矢部栄吉氏の後ろ盾を持っていた関西人木村末吉氏であった」(鈴木義二『浅草昔話』南北事業部 昭和39)とある。

昭和5年冬、八千代は27才になっていた。八千代が玉木の2号夫人となったのは大正12年北陸巡業で客が入らず、七尾の玉木に借金をした時であった。座員のためだった。しかし玉木に会わなかったらくるま座長(雇われ座長)で終わったかも知れない、座員で慕っていたお光っばあさんが言った「自分も30で別れたから、30だったら分かれきれる。それすぎると別れられない」と言われ決心が付いた。そして八千代は大阪吉本へ寝返りを打った。
吉本せいは八千代の芸の力と人柄の良さに惚れ込み可愛がってくれた。昭和11年まで足かけ7年吉本興業に所属し安来節と万才を行った。大正6年ごろ16軒であったせいの寄席は昭和7年には47軒の劇場を所有する大女興行師に成長していた。
そのころ浅草では復興した浅草公園六区で安来節を上演していた「御園座」は、昭和5年、大森玉木が新築し、同年11月1日に「玉木座」としてオープンした。支配人には、大森が見込んだ佐々木千里が就任、佐々木は、浅草オペラ時代に、「外山千里」の名でチェロを弾いていた。
同日のオープンと同時に旗揚げしたのが、「プペ・ダンサント」である。旗揚げ興行に出演したメンバー榎本健一は、「新カジノ・フォーリー」を前月に10月に畳んだばかりで、新カジノに舞台装置家として参加していた菊谷栄が作家として参加、文芸部長は新カジノに引き続きサトウハチロー、文芸部には菊谷のほか、菊田一夫、斎藤豊吉らがいた。
昭和6年の浅草六区の出し物を観ると各館の入場料は普通席二十銭、特等席が三十銭から五十銭、割引になると十銭、それからでも3時間は楽しめる。帝京座「映画萬歳・混声舞踏団」日本館「歌劇、エロエロ舞踏団」水族館「カジノ・フォーリー」電気館「パラマウント・ショー」東京館「白鳥レビュー団」玉木座「プペ・ダンサント」(台東文化振興会編『台東風俗文化史』昭和33)とあり、かつての安来節はレビューに変貌していることが分かる。そして、安来節の女達は浅草六区から追い出されていくのである。時代の流れは速い、榎本健一は、翌昭和6年11月に二村定一、武智豊子と共に「プペ・ダンサント」脱退、翌月の12月、「浅草オペラ館」に、二村との二人座長の新しい劇団「ピエル・ブリヤント」を結成した。同じころ、支配人の佐々木千里が玉木座を退職し、淀橋区角筈(現在の新宿区新宿3丁目)に同年12月31日、劇場および劇団「ムーランルージュ新宿座」を開いた。
昭和8年1月、菊田一夫が「プペ・ダンサント」に復帰したが、同年4月、榎本は古川ロッパ、徳川夢声らと浅草常磐座で「笑の王国」を旗揚げした。同年6月、プペ・ダンサントは解散した。

はたして大阪では昭和10年の秋、八千代の出演する新世界花月の隣、大橋劇場に酒井淳之介と義二郎兄弟一座の剣劇が掛かっていた。両劇場の楽屋は接しており窓越しに立つとお互いの楽屋が見えるほどで毎日挨拶していた。また、暇を見てはお互いの芸を見合っていた。義二郎の得意芸は「狐忠信」であった。天井の四隅から針金をはり中央で交差させ狐に扮した義二郎が宙乗りで登場し中央でとんぼ返りをする。身が軽く演技も上手であったが、失敗したら客の上に落ち大変なことになると八千代は固唾を呑んで見ていた。何となく心が通うものを感じ、そして結婚した。
昭和11年八千代は吉本興業での公演を終え、大和家三姉妹一座を解散して再度浅草公園に戻った。そこにはかつてのような安来節常設小屋は一軒もなくツマ程度に安来節は歌われていた。八千代は玉木と稼いで建てた玉木座や亭京座に行ってみると休館のビラが貼ってあった。
八千代「玉木経営だった帝京座にも休館の張り紙があり、ふらふらしていた玉木の息子保と開けた二・三日したら客が入るようになった。ところがその木戸銭を帝京座の所有者となっていた松竹座の連中に玉木の借金代わりに押さえられてしまった」玉木は八千代が吉本興業にいた間に全てを失ったように見えた。だがその実、玉木は公演で得た膨大な利益を郷里の七尾に運び様々な事業を展開して成功していたのだった。のちに衆議院議員当選6回をはたし昭和39年2月死去した。

時代は戻って昭和12年、八千代と義次郎(本名)は浅草田島町に住み漫才をしていた。
そこに根岸吉之助さんが私に木馬をやめて安来節小屋にするから、お前の看板が欲しいと無理矢理に引っ張りに来た。夫婦漫才は身が軽かった。もう座長は嫌だった。ずいぶん悩んだ。そんな時に気質の親友脇谷しげこが「安来節のこと忘れられるの?」ときた。胸がドキーンとした。忘れられないと思いそれで決心が付いた。こうして木馬の常打ち座長となり昭和13年正月、木馬演芸場は初日を迎えた。開けたはよいが一日に7人くらいしか客が入らなかった。六区で客が入らないのは初めてで「えらいことはじめたと哀しくなった」四辻に立って神様に祈った。すると一週間も経たないうちに客が来始め満員になった。木馬館の周囲はぐるっと回れるようになっていたので、二重三重に取り囲んで客は待つほどになった。興行は絶好調だった。しかし世の中には暗雲が…。
昭和16年アジア太平洋戦争へと入っていった。昭和12年からの日中戦争で生活物資は不足して、いよいよ深刻化していた。昭和17年には衣料品まで配給制度(一人一年100点)になると八千代は「学校の成績は百点以下でも子供を叱ってはいけません。着物やシャツの点数では子供も100点もらいます」と世相を皮肉って歌っている。
昭和19年戦局もはげしくなり衣料切符も30才以下50点、客は銭を持っていてもしょうがないので、投げ銭が派手になった。
同年8月学童疎開がはじまる。11月24日には東京初空襲。大晦日の空襲では木馬演芸場の玄関に焼夷弾が炸裂した。それでも公演していた。安来節の生声は爆弾でかき消され、仕方なく郷里の出雲に帰ることにした。街灯も消された真っ暗な公園から電車道を歩き三筋町をぬけて東京駅までファンが荷物を持って送ってくれた。
昭和20年3月10日、東京に2665トンの焼夷弾が落とされた。驚くことに木馬演芸場は5月4日に開館した。昭和20年8月15日終戦を迎える。
昭和26年10月21日、戦時中廃館していた橘館の跡地に百万ドル劇場が開館した。関根社長はストリップやレビューに飽きた観客を取り戻そうと四座合同安来節と秋田民謡美人団をキャッチフレーズに興行した。八千代「関根社長に無理矢理引っ張られ、大和家芸能社として参加した。かつての名人座長と共演した」これを機にまた東京へ。
昭和31年6月、鉄筋コンクリート造りで現在の木馬館が落成。1階は映画館、2階は安来節常設。
昭和35年、義次郎と八千代は夫婦漫才を木馬館で演じていた。演目も出会いのキッカケになった「狐忠信」八千代の三味線に合わせて義次郎扮する子狐が屏風の影に身を躍らせて飛び込むシーン、影で黒子が義次郎を受け止める。この日は屏風の影に誰もいなかった。胸を強く打ち下谷病院に入院、すると肺ガンが露見。すでに悪化していて12月13日死去。八千代は生きる気力を失った。60才になっていた。息子の義直は明治大学2年生。
昭和36年、八千代は引退を決意した。

昭和52年6月1~28日まで木馬館はさよなら公演をおこなった。八千代は75才、招待されて歌った。この時、根岸三代目吉之助は病床にいた。さよなら公演のことは知らずに85才で死去した。
平成3年4月八千代は白鴎高校にいた。同校の三味線クラブから講師として招かれていたのだ。そして一年間指導にあたった。
平成8年9月、八千代は永寿病院に入院。
明治女の寅年生まれ、意識を失って10日も経っていると言うのに生きる力が旺盛で、植物状態にもかかわらず堂々としている。不思議に思えた。平成9年4月17日永眠、安来節人生全編の終わり。
コメント
波乱万丈な人生ですね。安来節の栄枯を見て漫才をやり夫に死なれそれでも生きたのはプロジェクトX並です。漫才研究してますが夫 酒井義二郎は何歳で亡くなったのでしょう。
  • 源丸
  • 2012/02/24 5:36 PM
息子さんと会う機会がありましたら、義二郎さんの誕生日を聞いてみます。八千代大師匠とは実際にお目にかかって話をさせて頂きましたが、小柄ながら凛とした心の強さがオーラで出ているような方でした。
  • ダーク広和
  • 2012/02/25 11:32 AM
ずいぶん前の本に酒井義二郎 大和家八千代の看板が上がってる漫才大会の写真を見ました。その前座に上がっていたのが若き日の玉川良一と東けんじでした。しかし、酒井義二郎 大和家八千代の写真は見た事ありません。狐忠信の名手と古い本にありましたが、未だに生没年月日やら本名やら写真も見た事はありません。八千代さんはダーク大和さんが舞台にあげた時の録音を聞きましたが感心しました。
  • 源丸
  • 2013/09/23 10:21 PM
初めまして。突然の書き込み申し訳ございません。

矢部栄吉の孫で、近年父より祖父の事を聞く機会が有り、ネット検索した際にこちらの記事を見させていただきました。
祖父の事を知れてとても感謝しております。
ありがとうございました。
  • 矢部
  • 2018/01/02 6:35 PM
閲覧ありがとうございます。
おじいさまも波乱に満ちた人生をすごされたのでしょうね。
共感致します。
  • ダーク広和
  • 2018/01/03 11:46 AM
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